くれあママ


くれあてぃーぼ(以下くれ坊)は乳母車を覗き込んでくる誰にでもニコニコ微笑みかけるような赤ちゃんでした。生まれたときから大きめだった体は発達も育児書通りで、乳児検診なども行くのが楽しみなくらいでした。

 ところが歩き出すようになると、行方不明にはならないものの自分の好きなようにふらふらし始めました。公園友だちと一緒に遊ぶことはなく、友だちがくれ坊の真似をしてもくれ坊が友達の真似をすることはありませんでした。

 友だちが二語文、三語文・・・とどんどんおしゃべりするようになっても、くれ坊は「いー、いー」としか言いませんでした。それでも近所の人に「うちの子もニコニコするばかりで2才過ぎてもしゃべらなかったから大丈夫よ」と言われたりして、あまり気にせずに過ごすうちに、1歳半検診で「返事をしない」「目が合わない」など指摘され、苦悩の日々が始まったのでした。

 見た目はなかなかかわいい(親バカ)ので、くれ坊が話さなかったり、人と関わろうとしないのは母親のせいだと考える人に随分出会いました。ですから3才すぎて「自閉傾向」と言われたとき、「なぁんだ、障害児だったのか」とほっとしたのでした。「自分のせいではなかったんだな」という気持ち半分、「障害なら治るだろう」という気持ち半分でしたが、後者は考えが甘かったのだな、と後に気づかされることになります。とはいえ、さといもの会の自己紹介で「ほっとした」と恥じ入りながら話したとき、「私もそうだった」という方が何人もいらして、なんだか安心した気分になったのでした。

 さて、言葉の教室とのかかわりですが、くれ坊が年中で通園施設に入ったとき、かかりつけの小児科の先生に「障害児の認定を受けたいのですが」と相談したのです。当時はまだ知識が乏しく、こんな質問の仕方になったわけですが、そこで、特別児童扶養手当の申請をするために知能テストを受けるという話になり、市立病院に言語聴覚士の先生がいることを初めて知ったのでした。

 知能テストを受けたあとに「言語療法」の申し込みをしました。月に1度(後に3ヶ月に1度)の言語療法の始まりです。

 先生が出したカードを見ながら名詞や形容詞、また所有格の練習をしました。口にこそ出さないものの、意外といろいろなことを知っていることがわかり、段々と言葉も出るようになってきました。そうなってくると欲が出るもので、月に1度では物足りない、もっと言葉の刺激をもらえるところはないだろうかと探し始めました。

 先ずは市内の「リハビリ科」のある病院に電話をかけてみましたが、俗に言う「リハビリ」とは子ども向けのものではないのですね。そうしてナント、市内には言語の先生は2人しかいないらしい、ということがわかりました。そこで、東小学校の言葉の教室に見学を申し込み、一度くれ坊を見ていただくことになったのです。ところが、言葉の出始めが遅かったわりに、言葉が発達していること、丁度就学時検診の時期と重なり、くれ坊より1年年上で、検診で言葉についての不安を指摘された子どもたちが次々と言葉の教室に入ってくることになり、くれ坊は「また何かあったら相談してください」とそっけなく断られてしまったのでした。

 それでも言語の刺激を増やしたいという気持ちは変わらず、隣の富士市の療育センターや大渕幼稚園で見てもらえないかと問い合わせをしたのですが、市外の子どもは受け入れが難しいという返事ばかりでした。

 そうこうするうちに4月の新学期が始まり、くれ坊は公立保育園への移行を果たしました。そして保健センターで言葉の相談をしていることを知り、早速申し込みをしました。そこで一度は断られた先生との2度目の出会いになったわけですが、今度は引き下がるわけには行かないと思い、言葉は随分出てきたのだけれど、「てにおはがおかしいんです」と半ば強引に教室に通わせていただくことになりました。

 市立病院でカードを中心をした言わば「お勉強」をしているので、言葉の教室では遊びを中心にしてやってみましょう、ということになりました。じゃんけんやすごろくなど、ルールが理解できずに家ではまったくできなかった遊びを時間をかけてじっくり教えていただき、言葉だけでなく、勝ち負け、順番の理解も促されました。平行して続けていた公文式で文字を覚えたこともあり、言葉はどんどん増えて行きました(今ではうるさいくらい)。

 保育園卒園と同時に言葉の教室も卒業となりましたが、くれあママは困ればいつでも相談に乗ってもらえる場所、また仲間を紹介してもらえる場所として、言葉の教室を便利に(!?)使わせて頂いています。

 もっともっと仲間が増えて、情報が沢山集まったらいいな、と思います。

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